M.S.K. , Osaka

M.S.K. 八つ切 組立暗箱

M.S.K. camera

 八切サイズの撮影が可能な,木製カメラである。大型なカメラであるが,蛇腹が使われており,持ち運ぶときなどには折りたたむことができる。撮影のときには,折りたたんだ状態から,レンズボードやピントグラスのついた前枠と後枠を起こす必要がある。このことから,この種のカメラは,組立暗箱とよばれる。
 アオリは可能だが,ほぼフロント部のシフト/フォールのみに限定される。レンズボードも木製であるが,入手時には,リンホフタイプのボードが使えるように加工されたものも含まれていた。木製ボディだからこそ,可能だった改造ということだろう。
 フォーカシングノブは前後にそれぞれあり,蛇腹を長くして使うときは前方のノブを,蛇腹を短くして使うときは手前のノブを操作するようになっている。

 このカメラは,複数のバックアダプタとともに入手したため,どれが本来の組みあわせなのか,確証がもてないでいた。カメラ本体には製造者をあらわすような銘板はついておらず,バックアダプタにはそれぞれ異なる製造者をあらわす銘板がついていた。
 入手した当初は,本体と色が似ていたこともあり,セットのなかでもっとも大きな四つ切1/2判用のバックアダプタについていた「OKUHARA CAMERA MFG CO.LTD」のカメラとして扱うことにしていた(OKUHARA CAMERAとして扱っていた当時のページは,こちら)。
 その後,カメラ本体のバックアダプタを取りつける部分に「12」という独特の書体の数字が刻まれていることに気がついた。同時に入手したバックアダプタのうち,八つ切判用のものにそれと同じような「12」という数字がついていることが確認できたので,このカメラの製造者は,八つ切判用のバックアダプタについていた銘板があらわす「M.S.K. OSAKA」のものであると判断することにした。
 「OKUHARA CAMERA」にしても「M.S.K.」にしても,大阪にあったメーカーあるいは販売店に関係するようであるが,これらの組織の活動期間やこのカメラそのものの製造年代などは,はっきりしない。一般向けのものではなく写真館など業務用に特化した機材のようで,カメラ雑誌に広告を出すような性格の製品ではないようだ。そのため,このカメラについての資料を見かけることもない。資料を見かけることがないのに対して,「OKUHARA CAMERA」というプレートのついた組立暗箱は,中古カメラ店やインターネットオークション等でたまに見かけることがある。つまり,それなりの量が市場に流通していたものと想像できる。組立暗箱としては,決して希少なものなどではなく,むしろきわめてポピュラーな製品だったのかもしれない。
 いまのところ「OKUHARA CAMERA」は,昭和30年から昭和40年代にかけて大阪市住吉区に存在したようである「奥原写真機製作所」のものではないかと考えている。また,「M.S.K.」は昭和初期に船場(当時の大阪市南区順慶町)にあった宮崎健商店が使っていたブランドと同じものではないかと考えている。
 それ以上に,さまざまな銘板の組立暗箱や無銘の組立暗箱も,見かけることがあるのが現状である。

 このカメラと同時に入手したレンズは,上の画像にもあるFUJINAR 21cm F4.5である。

M.S.K. Camera
レンズボード木製 (110mm×120mm)
画面サイズ八つ切
バックアダプタの変更で,四切1/2,カビネ,4インチ×5インチなどの撮影も可能。

 入手したセットには,次のような4種類のバックアダプタが付属していた。

 4×5判用のアダプタである。このアダプタには,製造者をあらわす銘板のようなものがなく,材質も本体とまったく異なるようなので,後に別のところでつくられた可能性もある。一般的な4×5判用のフィルムホルダが使用できるようになっている。


 カビネ判用のアダプタである。このアダプタには,「OKUHARA CAMERA」のプレートがある。組立暗箱本体とは,若干,色が異なるようである。


 八つ切判用のアダプタである。このアダプタには,「M.S.K. OSAKA」のプレートがある。

「M.S.K.」という名称は,昭和初期の写真材料商「宮崎健商店/宮崎健次」が使っていたブランドであろうか?(→twitterの投稿を参照


 四つ切1/2判用のアダプタである。四つ切1/2判は,ライカ判よりも細長い形状で,集合写真向けのフォーマットだったと思われる。その長さを利用して「ややパノラマ」な写真を撮るのもおもしろい。このアダプタには,「OKUHARA CAMERA」のプレートがある。上記のカビネ判用のアダプタとは,木材の色が明白に異なっている。


 これらの発売元に関する確定的な情報はないが,古い電話帳の情報などを断片的に参照したところ,関係ありそうな組織を見つけることができた。

【奥原写真機製作所】
 OKUHARA cameraに関係しそうな組織としては,大阪市住吉区にあった「奥原写真機製作所」がある。
 
 1954(昭和29)年6月の「大阪市人名別電話番号簿」には掲載がなく,1955(昭和30)年4月の「大阪市人名別電話番号簿」には掲載がある。また,1978(昭和53)年の職業別電話帳に掲載されているが,1979(昭和54)年の職業別電話帳には掲載がない。
 大阪市全商工住宅案内図表(住宅協会出版部)の1961(昭和36)年版と,1969(昭和44年)版では,「奥原写真工場」が記載されていることが確認できる。大阪市精密住宅地図(吉田地図)の1977(昭和52)年版では,「奥原写真工場」はすでになく,それがあったと思われる場所には別のビルが建っている。その後,大阪市営苅田住宅1号館の建設にあわせるかのように,1990年には該当場所は空き地になっている。
 国土地理院が撮影した空中写真では,1975年に撮影されたものでは「奥原写真工場」に該当する建物らしきものを判別できるが,1979年に撮影されたものではその建物がなくなっている。
 これらのことから,「奥原写真機製作所」は,1955年ころから組立暗箱などの製造活動をはじめ,1977年までに製造を終了して工場を撤去,1979年までに活動をすべて終了したものと考えられる。それでも,乾板用の旧式の組立暗箱の製造社としては,かなり近年まで活動していたものの1つと言えるだろう。
 「奥原写真機製作所」の名前は,国立国会図書館デジタルコレクション(*1)で参照できる「大阪府工場名鑑」「全国工場通覧」などにも見つけることができる。
 ただ,電話帳や「大阪府工場名鑑」「全国工場通覧」に記載されている住所は現在の「大阪市住吉区我孫子東3丁目」にあたるが,住宅地図で「奥原写真工場」が記載されている場所は現在の「大阪市住吉区苅田9丁目」にあたり,一致していない。ただし,当時はどちらも「我孫子東5丁目」に含まれていた。

【宮崎健商店(宮崎健次)】
 M.S.K.については,宮崎健商店(宮崎健次)が該当すると考えられる。たとえば1940(昭和15)年8月の「大阪電話番号簿」に掲載があり,3つの電話番号を使用していたことがわかる。当時の所在地は,大阪市南区順慶町2-11と記載されている。


*1 国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/